普段、私たちは何気なく何かを選択し何かを選択しないで生きています。例えば、今日のメニューは何にしようかと考え、カレーを選択すると、それ以外のメニューは捨てると言うか、その時は選択しないで時が過ぎていきます。選択すること自体は、特別なことではなく、日々何をするにしても選択することがつきまといます。
ただ、この選択することが人生において大切なこと、例えば職業選択のようなことになると、俄然、自分にとって大きな意味を持ってきます。
ここで、またNHKの朝ドラの話になって恐縮ですが、現在の朝ドラ「寅に翼」の2つ前、「らんまん」の中で、主人公の祖母がこの台詞を言う場面があります。それは、高知の田舎の造り酒屋の跡取りとして生まれた主人公が、植物学の道を目指すことを決めた時、それまで反対していた祖母が言う台詞です。この時の「捨てる」内容は、直接的には、直前に主人公のことを守ってくれた人のことです。その人は、主人公の思いを理解してくれて主人公を守ってくれるのですが、その人を助けようとすると、自分の選択ができなくなる状況の中で、祖母は、自分の道を選択するのであれば、その人の思いを受け止めながらも、その人を見捨てる覚悟で自分の選択をしなさいということと、(おそらく祖母にとっては、本当はこちらの方がメインだったかも知れませんが)これまでの、造り酒屋の跡取りとして生きてきたことも捨てる覚悟を問うているシーンでした。
そのシーンを見た時、連想したのが「チャイルドファースト」という言葉です。「チャイルドファースト」ということは、子どもを最優先するということですから、そのこと自体に反対する気持ちはありません。ただ、「子ども」という言葉や存在は、言葉としては「大人」あるいは「親」という言葉の対義語ですし、実際の生活の中でも「子ども」と「大人」あるいは「子ども」と「親」は切り離せない存在として生活しているので、支援についてもセットで考える必要があるのではないかということでした。
題名の「何かを選択することは何かを捨てること」という言葉と合わせて考えると、「チャイルドファースト」ということは、子どもを選択して大切にするが、「大人」あるいは「親」を捨てることにつながらないのか?という疑問です。これまでの歴史の中で「子ども」が虐げられ人権をおろそかにされてきたという事実はあるのだろうと思います。しかしながら、子どもが成長していくためには「大人」あるいは「親」は必要な存在ですから、「子ども」と「大人(親)」は、セットで大切にすることが、「子ども」の安全や健やかな成長につながるのではないかと思うのです。
ネットを検索してみると、親子をセットで考えようとしているサイトもありましたが、多くのサイトでは、「子ども優先」として捉えていることが多いようです。 虐待対応は、政治(行政)的な要素を含むので、「子ども優先」という耳障りの良い言葉に偏りがちなのかも知れません。
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