#40 児童心理司と発達障害のあいだ

心理あいだシリーズ

今回は、児童心理司と発達障害のあいだというテーマで書きたいと思います。

発達障害は広い概念なので、今回はアスペルガー症候群(これからはアスペルガーと省略します)を念頭において書きたいと思います。児童心理司がアスペルガーの子どもに会うことは、最近増えているのではないでしょうか?私がいた自治体では、知的には課題がなさそうだけれど、何か集団の中で上手く適応できていないようだとか、何か支援して貰えることがないのかといったことで、子どもの検査をして欲しいという主訴で児相に相談に来る人が増えていたと思います。まあ、発達障害という言葉も随分メジャーになってきているので、保護者の中には子どもに発達障害があるのではないかと疑って相談にくる人もいるでしょうね。そうやって児相に相談に来ると、児相としては心理司がウエクスラー系の知能検査を実施し、発達の偏りを見てみることになります。検査時の様子、検査の結果、保護者からの話などを聞いて、児童心理司としては、発達障害を疑うことはあります。でも、その先、児相にできることはあまりありません。診断行為や投薬は医者でなければできないので、児相としては発達障害の疑いがあるので、医療機関にかかるように勧めること位しかできないのです。あとは、知能検査の結果から子どもの得意・不得意な面は説明できるので、その子どもの特徴に合わせたかかわりをして下さい、といったことくらいしか言えないのです。

ただ、私は現役時代、こうした児相の姿勢に少しだけ不満を持っていました。というのは、先程も触れたように、アスペルガーを含めた発達障害という言葉は随分有名になってきており、特に特別支援教育の世界では、その子の特徴に合わせた教育を目指すようになってきていますし、特徴を持ったお子さんに対する民間の教育機関もできてきています。そうした社会情勢の中にあって、わざわざ児相に相談にきた保護者に対して、知能検査を実施して結果を伝え、医療機関を勧めることだけでいいのか?と感じていました。教育機関(それが学校でも民間の教育機関でも)は、あくまで「教育機関」なので、その子達に何かを教えようとします。それは、教科的なものであったり、対人スキルであったり内容は様々でしょうが、少なくとも何かを獲得できるようなアプローチになると思います。

そうしたアプローチはもちろん必要だと思いますが、教育的アプローチは子どもに対して「(何かを獲得して)変化しろ」というメッセージを伝えることになります。でも、もう一つ大切だと思うのは、発達障害を持つ子ども達にとって(障害を持っていない子どももそうですが)、障害を持つが故に周囲の理解を得られず、元々持っている障害とは別の理由で自己評価が低くなり、いわゆる二次障害を起こさないようにすることだと思うのです。特別支援教育の中では、この視点も大切なものだとの認識はあると思いますが、しかし、教育機関である以上、どうしても「できる」ことに目が行きがちであると思います。

あと、虐待事例の中にも発達障害を疑う子どもが一定数います。発達障害があることが虐待の理由になっていることもあれば、そうでない場合もあると思いますが、(発達障害があろうがなかろうが)虐待を受けている子どもは、自己評価が低くなる傾向が見られます。虐待者は、子どもが起こしたことに対して、年齢だったりその子が持っている能力以上のやり方で責任を取らせようとします。その結果が、身体的虐待だったり心理的虐待だったり、ネグレクトになったりする訳ですが、子どもにとっては、年齢相応ではない、あるいは持っている能力以上の責任の取り方を求められるので、「自分はうまくやれていない」と感じることにつながり、自己評価は低くなってしまいます。

この「自分はうまくやれていない」という感覚は、実は教育の中でも起こりやすい感覚です。というのは、先程話したように教育は「(何かを獲得して)変化しろ」というメッセージを伝えることになるので、その期待に応えることができない場合は「自分はうまくやれていない」という感覚に陥りやすいからです。

虐待と教育の大きな違いは、虐待の場合は、子どもを認めたり励ましたりするといった子どもと関係を保とうとする努力や別の場面で子どもの自己評価を高めるようなかかわりなしに、責任だけを取らされるような事態になることが多いです。教育の場合は、なかなか個別的な対応というのは難しい面もあるけれど、子どもを認めたり励ましたりといった子どもとの関係を保ちつつ、別の場面では子どもの自己評価を高めるようなかかわりをしていくということが、視点としてあるということです。特に特別支援教育のような個別的なかかわりが比較的できやすい環境では、子どもの自己評価を確認しながら、新たな課題を提示して「(何かを獲得して)変化しろ」というメッセージを伝えているという点です。

結果として、虐待環境の中では、自分が何かを獲得して変化したとしても、大人は一瞬喜ぶかも知れませんが、すぐ、より困難なことを要求されるということが起こりがちです。一方、教育環境では、自分が何かを獲得して変化することで、先生はできたことを一緒に喜んでくれますし、やればできんるんだと子どもの自己評価を高めるような働きかけをしてくれることが多いのです。

子どもとしては、虐待環境では、自分は頑張っても大人の期待に応えることができないんだと感じることが多くなりますし、教育環境では、自分はやればできるんだと、自己評価を高め、新たな課題にも取り組む意欲が強くなるという可能性が高くなります。

ただ、いずれにしても「(何かを獲得して)変化しろ」というメッセージというのは共通するものです。ここが、福祉的環境とは大きく異なる側面で、福祉的環境(ここでは児相のことですが)では、「今のままでいい」というメッセージを伝えることができるのではないかと思うのです

二次障害というのは、周囲の無理解もありますが、周囲からの期待に応えきれないために子どもが自分で自分の評価を下げてしまうという側面もあるような気がします。特徴を持ってはいるけれど、自分を守るために、周囲に自分の特徴を知ってもらうことや自分自身をどのようにコントロールするかといったことを子どもや保護者と一緒に考えていくことは、福祉的環境にある児相の仕事であるような気がします。このことが成り立つためには、もちろん子どもや保護者にニードがあるかどうかを確認する必要があるとは思いますが。

もう一点、私は取り組むことができませんでしたが、発達障害を持つ保護者が、自分の子どもをどのように養育するかということが、今後、課題になってくると思います。

虐待事例の中には、おそらく保護者が発達障害を持っているなと感じる事例があります。社会的には、発達障害を持つ子どもをどのように育てるかとか、パートナーが発達障害を持っていたらという視点からは、かなり議論されてきていると思いますが、発達障害を持つ保護者に対する養育支援という視点は、まだまだ不十分だと思います。虐待事例では、親子の分離後、家に帰す再統合がテーマになり、ペアレントトレーニングなどの試みは行っていますが、どちらかといえば、一般的な子どもとはどんな育ち方をするか、とか自分の子どもの特徴を理解してかかわりましょうといった視点が多いような気がします。保護者自身の特徴を理解しながら子どもにかかわりましょうという視点は、(私が知っている限りでは)あまりないような気がします。 ただ、保護者の特徴を踏まえながらの養育支援は、とても難しいので、これは現時点でも取り組んでいる人はいると思いますが、事例を積み重ねていく必要があり、時間がかかることだなあとも思います。

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