最近、『知的複眼思考法』という本を読んでいて、(本自体は大学生が読むような本で、私がイメージしていたのはもう少し実用的な本だったので、ちょっとがっかりしたのですが)久しぶりに「メタ」という言葉に出会いました。
私が初めて「メタ」という言葉に触れたのは、もうずいぶん前になりますが、家族療法を学んでいた頃だと思います。現在、「メタ」という言葉をネットで検索してみると「高い次元の」や「超越した」という意味で、学問や視点をその外側に立って見ることを意味するようです。
「メタポジション」で検索すると「第三者的な客観的な立場でみる立ち位置のこと」とされ、最初に出てくるのはNLP用語としての解説です。NLP(Neuro Linguistic Programming:日本訳は神経言語プログラミング)は、アメリカで開発当初は心理療法のひとつとしてスタートしましたが、その後は、幅広く活用されているようですね。
まあ、NLPのことはともかく、「メタポジション」については、自分自身がそのポジションの視点に立とうする努力をしてきたなあと思います。特に神奈川県で初めて立ち上げた「虐待防止対策班」の時や再任用で配属された「親子支援チーム」では、いわゆる事例の担当者は別にいて、担当者あるいは相談者(保護者が多かったですが)を支援するという仕事は、位置づけそのものが「メタポジション」的だったと思います。別に「高い次元」や「超越した」仕事をしていた訳ではなく、位置付けそのものが、担当者と相談者は当事者になり、双方の関係性と起こっていることを見ながら仕事するというものでしたから、必然的に第三者的・客観的な立ち位置で物事をみようとすることが習慣になっていたような気がします。
私がYouTubeで「あいだシリーズ」として職種間や機関間のあいだについて投稿しているのも、その影響だと思います。
自分が直接の担当者だった頃は、当たり前ですが自分が担当する子どもとの関係を意識し、子どもにとってよりよいことを目指して保護者にも対応していたと思います。しかし、直接の担当者でなくなり担当している職員や保護者を支援するという立場になると、担当と子ども・保護者とのあいだでどんなことが起こっているのかを客観的にみていないと今後どのようなアプローチが有効なのか判断できなくなります。このことは、担当と子ども・保護者との関係だけでなく、担当と施設・学校・市の関係機関など、あらゆる関係に当てはまります。ただ、子どもと保護者は直接観察することができても、施設や学校、関係機関などは窓口となっている人がどのような人なのか直接観察する機会は少なかったですし、その人が所属する組織がどのような判断をする傾向があるのか客観的情報が少ないことも多いものです。となると、担当者から情報を得るしかない訳ですが、担当者は当時者の一方になるので、担当者からの情報のうちどういう情報が客観的な情報なのかを判断する必要も出てきます。あるいは、別のところから、客観的な情報がないかを探すようなこともしていたなあと思います。 と、言葉で書くとかなりややこしいことをやっていたなあと思います。ただ、そういうややこしい状況に置かれて仕事していたことが今の自分につながっているなあと、少し感慨深く感じた時間でした。
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