#58 桜切るバカ、梅切らぬバカ

日常のエピソード

この言葉は、ネットで調べると桜と梅の剪定にかかわることわざと書かれています。桜は、枝の切り口から菌が入りやすく腐りやすいためむやみに剪定してはいけない、一方、梅は無駄な枝を切ってやらないと樹形が崩れてしまい、よい花や実がつかないということのようで、樹木の剪定は、それぞれの木の特性に従って対処する必要があるということのようです。ちょうど、桜の季節なので(どんな番組か忘れましたが)テレビのある番組で言われていた言葉です。

木の特性に合わた対処をする必要があるということから、『人それぞれの個性に合わせた手のかけ方をすることが大切』という意味に使われるようです。

対人援助の場合、当然のことながら同じことが言えると思いますが、難しいのは、対象となる人が、桜なのか梅なのかがすぐには分からないということです。対象となる人がどんな人なのかという見立て(福祉の世界の言葉ですね。医療では診断ということになります)が難しいのです。木の桜や梅の見極めは慣れた人であればすぐにできますが、人の見立てはそんな簡単にはいきません。医療の世界では、何か症状があって医者に診てもらうので、対象となる人が困っていることは明確なことが多く、診断も症状に合わせて行うことになります。ところが、福祉の世界では医学で言う症状が、社会的な内容(例えば、子どもでは非行とか大人では虐待とか)であることが多く、その見立ては対象となる個人のことも含みますが、個人を取り巻く環境からの影響も考慮に入れた方がよいことの方が多いのです。となると、対象となる人が桜なのか梅なのかという見極めは、個人を取り巻く環境と相対的な関係となり、場合によっては「〇〇な環境では桜」だが「△△な環境では梅」のようになるということが起こりかねず、対象となる人を取り巻く環境を含めた俯瞰的な視点が不可欠になってきます。

一方、例えば軽度の知的障害がある方は、周囲から知的な障害があるということが分かりにくいために、その人にとっては過度な要求をされてしまい、そのために失敗経験となってしまうことが多く、結果として自己評価が低くなることも見受けられます。 一般に「レッテルを貼る」という行為は否定的なニュアンスを含みますが、例に挙げた軽度の知的障害の方は、比較的早く言語を獲得することが多く、「言葉を話せる」ことで、知的障害がない方と同じような期待をかけられてしまう(複雑な作業や判断を求められてしまう)ために失敗経験につながる可能性が高いのです。療育手帳という制度は、障害に対するサービスを受けやすくすることが主な目的ですが、手帳を持っていること(ある意味レッテルを貼るということです)が周囲に障害があることを理解して貰うための一つの手段になり得るなあと思うこともあります。これは、自ら私は「桜」ですよと宣言しているような行為ではありますが、社会が円滑に動いていくためには必要な面もあるなあと感じた時間でした。

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