#64 主体的であること

日常のエピソード

「主体的である」とは、ネットで検索すると『自らの判断に基づいて、自らの責任のもとで行動すること』とされています。似た言葉に「自主性」という言葉がありますが、検索してみると『ある程度決められていることを自ら率先して行う態度や性質のこと』とされていて、両者の違いは「やるべきことを決定するのが自分であるか、他者であるか」の違いとされていました。

この定義には、なるほどと感じる部分があり、やるべきことを決定するのが自分か他者であるかという違いがあるという点に共感しました。このブログでは、時々触れていますが、人間が成長していく過程では、生まれた家庭の価値観や(多くの場合)親から期待されていることが当たり前としてあり、家庭の価値観や親からの期待に応えようとしていくものだと思います。その延長線上に家庭外の集団生活(幼稚園・保育園・学校など)があり、子どもと言われるうちは「自主性」を求められることが多いと思います。子どものうちは「やるべきこと」を決めるのは大人(組織や社会)であり、その決められた枠組みの中で自ら率先して行動することが求められることが多いと思います。しかし、子どもから大人になる時期(一般には思春期でしょうか)から大人には「主体性」が求められていくのではないでしょうか?「主体的であること」は、自らの判断に基づいて、自らの責任のもとで行動することですから、「やるべきこと」を決めるのは、周囲の大人(組織や社会)ではなくて自分ということになります。もちろん、法律のように大人でも守るべき社会的ルールはありますが、そうでなければ、自らやるべきことを見つけ、その結果には自分で責任を持つという行動が求められるようになるのだと思います。

昨今、子どもが大人になるのが遅くなっていると言われますが、この「主体的であること」の経験が少なくなっているのではないかという気もします。具体的には、子どものうちから(許される範囲の)『自らの判断』に基づいた行動を促され、その結果については(子どもなりの)責任を取るというような経験(例えば、決められている範囲のお小遣いをどうするか、すぐ使っても貯めても一部使ってもよいけれども、すぐ使ってしまえば次の月までお小遣いがないというような経験)が少ないために、「主体的に」物事を捉え、どう取り組んでいくのか判断できないようなことも起こっているような気がします。

(私が知っている範囲はとても狭い範囲ですが)社会人になって仕事の中でうまくいかなかった時に「(うまくいかなかったことは)教わっていない」と主張している人をみたことがあります。(その人は、言われたことに関しては真面目に取り組む人でしたが)その時、私が感じたのは「何を甘えているんだ」ということででしたが、それは同時に「社会人になってからは、自分で学ぶものだろう」という感覚が私の中にあったのだとも思います。もちろん、社会人になってすぐに色んなことができる訳ではないし、新たな仕事をする時には教えて貰う必要があるのは当然のことですが、その人の言い分を聞いていると「教えて貰っていないのだから、私は悪くない」という子どもじみた気持ちが見え隠れしていたので、余計に批判的に感じたのかも知れません。 いずれにしても、大人になるためには「主体的であろうとすること」が大切である気がしています。

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