最近、日本テレビ水曜夜10時放映の「ちはやふる~めぐり~」を見ています。とはいえ、夜10時は今の私にとっては真夜中なので、リアルタイムではなくTVerで見ているのですが…
主人公は高校2年生で、タイムパフォーマンスを大切にして、将来のために株の投資やアルバイトをしている現代の女の子です。最初、競技かるた部は幽霊部員なのですが、だんだん競技かるたにのめり込んでいくようになります。そこに至るまでは、「青春(することは)は贅沢だ」と思っています。このセリフには少し考えさせられました。私が高校性の頃は、「青春すること(何かに夢中になること)」は、当たり前のことで、そこにかかる親の負担などは何も考えていませんでした。しかし、現代の少子化の時代にいる子どもたちは、(おそらく)小さい頃から親の期待を感じ、その期待に応えようとし、期待に応えられないということは、親の負担を無駄にすることにつながることも分かっている。だから、青春することは(親の負担を含めて無駄にする可能性があるために)贅沢だと感じてしまうということなのだと思います。
このドラマを見ていて、「とうき的生き方」ということを思い出しました。ドラマの内容で言えば、競技かるたという世界に自分を投げ出していくという感じです。「とうき」は「投企」と書きます。思い出した時は、どんな漢字を書くのか忘れていました。それで、ネットで検索してみると「とうき」は「投機」と変換され、「投機と投資の違い」とかいわゆるお金の扱い方についての検索結果が出てきました(今どきですよね)。「とうき的生き方」に「哲学」を加えると、「投企」という言葉が検索できるようになりました。「投企」という言葉は、哲学者のハイデッガーが最初に唱えたことのようです。ハイデッガーによると『人間は「被投性(ひとうせい)」という、自分の意思とは無関係に世界に投げ込まれた存在として生まれます。その上で、未来に向かって自己の可能性を追求しようとします。この可能性を追求する自由な試みが投企です。』と検索結果には書かれていました。私が「投企的生き方」として思っていたことは、「ある場(状況)に自分を投げ出していく生き方」という感じで、生まれた時からのことまでを考えてのことではなかったので、おそらくハイデッガーの訳本ではなく、解説書のような本を読んだのだと思います。そんなことを考えていた頃(30年以上前ですが)、職場の男性先輩が(何の話をしていたのは忘れましたが)「(自分は)逃避的に生きている」と話してくれたのを私は「投企的に生きている」と聞き間違えたことがあったことを思い出しました。この先輩は真面目な人でしたから、「逃避的な生活」をしているという発言は、謙遜して言ったことだと思いますが。 この「投企的生き方」は、自分にとっては、ずっと自分の指針のようなものだったような気がしています。今、退職してYouTubeとか(この)ブログの発信とかも、自分は何者か?という問いに対する答ではなくて、これからも自分は何者であるか?を(ハイデッガー風に言えば)自己の可能性を追求しようとしているような気がします。年齢から言うと、そろそろ自分は何者であるのか?の答を見つけて、そこからの発言をすることが必要なのかもなあとも思いつつ、でも、やはり自分は何者である、と断言することはできず、いつまでふらふらしているのか?とも思うけれど、それはそれで自分らしいのかも知れないなあと感じた、ドラマを見ての感想でした。
コメント