先日、ネットでニュースを読んでいて気になるものがありました。それは、北海道の小学校で68才の教師が、児童にいたずらで教室の扉を閉められ、注意したところ児童から蹴られてしまい、とっさにつま先で児童の左すねを蹴り返してしまった(児童にけがはなし)ことで、北海道の教育委員会が教員に対して減給処分にし、児童にはお咎めなしという報道があった。このニュースを読んで評した人は、この児童は教員に暴力を振るっても、挑発しても、自分は守られるという誤った学習をした可能性が高いのではないか、と指摘したというものでした。このニュースを評したのは、千葉県の公立小学校の教員であり、「自治的学級づくり」を中心テーマとして、全国でセミナーや研修講師をしているような人だとのこと。ネット上では、報道に対して様々な意見があったが、特に支持を集めたのは「(当該児童の)保護者が教員に謝罪する姿を見せることが子どもの成長につながる」という趣旨の意見で、子どもは「やってはいけないことをすれば、親に迷惑をかける」ことを学ぶはずだと。しかし、実際は、処分は教員だけに下され、子どもは結果的に「挑発しても、自分は守られる」という誤った学習をしてしまった可能性が高い、と。
このニュースを読んで、思い出したことがありました。私が小学校2~3年だったと思いますが、私の家の隣は空地で、そこで友達とよく遊んでいました。ある日、一人の時があり、つまらなかったのか(理由ははっきり思い出せないのですが)隣接する家の庭に向かって小石を投げていました(空き地なので、塀が作ってあり、塀の上からではなく下に向かって投げていたのです)。すると、隣接した家の女性から「窓が割れた。どこに向かって石を投げているの!」と叱られました。私は、窓に向かって投げていた訳ではないので、「窓に向かって石は投げていません」と主張しました。すると、その女性は、「お母さんと一緒に謝りに来なさい」と言うので、母親を連れてその家に行きました。母親はもちろん謝りましたが、家に帰る途中、私は窓に向かっては投げていないことを主張しました。すると、母は、私の言うことを信じてくれ、それ以上、この件で何か言うことはありませんでした(おそらく、窓ガラスは弁償したのでしょう)。私の記憶では、「親に迷惑をかけた」という意識はなく、母が自分の言うことを信じてくれたことが嬉しかったことを覚えています。
北海道でのニュースを評した人は、「子どもの権利を守る」ことは教育の現場では絶対ルールだが、教員だけが一方的に耐えるよう強いられる不均衡はいかがなものか、どんな家庭の事情や背景がある子どもでも、相手(人)に暴力を振るえば「自らに責任が発生する」ということを学ばせるという観点が必要だと主張します。この意見に私は同意します。子どもの年齢や背景など、考慮するべきことはあるとは思いますが、自分が行った(特に相手を傷つけるかも知れない)言動(言葉の暴力も含むと思います)には責任が生じ、自分がその責任を負う必要があることは教えていく必要があると思います。
私の場合、親に迷惑をかけたという感覚より、母が自分を信じてくれたことが嬉しかった訳ですが、それでも、二度と石を投げるようなことはしませんでしたから、私なりに母に迷惑をかけたと感じていたのかも知れません。 私の場合のように、「子どもに(自分の言動の)責任を教える」ということは単純ではないと思いますが、大人の責任として「子どもに(自分の言動の)責任を教える」ことを意識することが必要だと感じた出来事でした。
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