今回は、私が大学生時代に経験したエピソードからです。友人だった同級生男性(Aとします)と、ある女性(Bとします)が数年間お付き合いをしていて、大学卒業でAは東京で就職し、Bは郷里で就職しました。ところが、東京で就職したAの仕事は大変きつく、就職後数か月してから郷里で就職したBに会いに行きました。(卒業時、2人にどのようなやりとりがあったかは知りませんが)Bは、郷里での友達に依頼してBには既にお付き合いしている別の男性がいるので、その邪魔をしないように話され、AはBとは会えないで帰ってきたということがありました。私は、学生時代Bとも仲がよかったこともあり、卒業後、年賀状のやりとりをしていました。ある年(といってもお互いに結婚し子どももいる状態でしたから、かなり時間がたってからです)の年賀状に、(具体的なことは書いてありませんでしたが)上記のエピソードについて悔やんでいるような表現がありました。その時、私が感じたのは、Bが友達に依頼して「既にお付き合いしている人がいる」とAに伝えたことは嘘だったのだなということでした。同時に感じたのは、嘘をついた自分をBはずっと許すことができず、(おそらく思い出すたびに)自分を責めていたんだろうなあということでした。私は「AもAなりの人生を歩んでいるし、これまでBは充分自分を責めてきたのだから、もう自分を許してあげていいんじゃないか」といった趣旨の手紙を書きました。このエピソードは、自分の価値感を基準にして自分が行った過去の出来事を自分で許すことができないというものだと思います。
他にも、例えば私のブログ#25の「私の灯台巡り」で紹介しているような、自分の(精神及び体力的な)限界を感じた時に、以後も仕事を続けるために「息を抜くことを自分に許す」というような、その時の自分の状態から未来の自分の行動を許すというような場合もあると思います。
いずれにしても、それまでに培ってきた自分なりの価値観の枠組みだけに従っていると、その枠組みから外れようとする自分を許せない状態となり、息苦しさを感じながら生きていくことになりかねません。すぐに自分を甘やかせばよいということではないのですが、「自分の価値観」というものをたまには見直してみる機会を持つことは大切なのではないかと思うのです。ところが「自分の価値観」というのは、日常的にはあまり意識しないで生活しているものです。「自分の価値観」のどんなところに自分が縛られているのかを意識するということは、紹介したような何らかのきっかけがないと、見直すことというのはなかなか難しいものだと思います。おそらく、特に意識する必要がないと感じているというか、見直す必要を感じなければ、もしかしたら、意識しないうちにうまく対処しているのかも知れません。ただ、この「自分の価値観」の枠が強すぎると、自責の念が強くて生きづらかったり、「息を抜く」ことができずに、無理が重なって体に出てしまう(病気になってしまう)ということもあり得るような気がしています。
「自分の価値観」は、自分として生きるためには大切なことではあるけれども、時に自分を縛ってしまっていることもあり、立ち止まってチェックし直すことも必要だなあと思うのでした。
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