#66 子どもの人権と制限

日常のエピソード

先日、ある飲み会で子どもの権利について話題になりました。私は、浅はかにも大人側の子どもの権利と義務についての整理ができていない、と発言してしまいました。ただ、自分の中で、子どもの権利について、きちんと考えたことがなかったので、帰宅後、子どもの権利条約をはじめ、最近の子どもの権利についての社会的な動きについて調べてみました。

すると、子どもの権利条約では、「子どもの権利はすべての子どもが無条件に持っているもので、いかなる条件も伴わない」ということのようです(つまり義務は伴わないし、責任を果たさないからといってはく奪されるものではないということです)。もう、ここを読んで自分の発言に恥ずかしくなりましたが、飲み会での話題は、子どもの集団生活上のことだったので、他の人との権利衝突が起こった場合は、どう考えるのか?という疑問が出てきて、子どもの人権制約について検索してみました。すると、広島県で平成20年に作成された「思いやりと優しさのハーモニー~楽しく学ぼう!人権いろは~」という資料(一般的な人権についての資料で子どもの人権に特化したものではありません)があり、人権は絶対無制限ではなく、他の人の人権と矛盾・衝突する場合があるとし、その場合には、いかに両立させていくかの努力が必要で、憲法では人権の矛盾、衝突を調整する基準として「公共の福祉」という言葉を使っているとの記述がありました。子どもの権利について考える時でも、この一般的な人権についての考え方がベースにあると考えて差し支えないでしょう。この資料の「人権の性格~人権とはどのようなものか~」という章に、人権とは人として正しいことであるので、主張して困るなどということはないはずとし、「自分勝手」や「わがまま」はそもそも「権利」ではないとしています(この資料では「自分勝手」や「わがまま」の定義は記述されていないので、どんなことを想定して「自分勝手」や「わがまま」と言っているのかは定かではありません)。飲み会で話題になった具体的エピソードは、思春期の子どもが、周りへの影響とは関係なく自分がやりたいことをやっているという内容だったので、ここまでの考え方からすると、話題になった子どもの言動は、「自分勝手」や「わがまま」に相当するような気もします。

「子どもの権利はすべての子どもが無条件に持っているもので、いかなる条件も伴わない」とか、子どもの人権には4つの権利(生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利)があるとか、子ども家庭庁の資料で、子どもの人権を守るための行政機関・自治体・大人の役割とか、子どもの人権を守るために社会がすべきことが記述されていたりするのを見ると、私はふと疑問を感じました。  私は、「子ども」という概念や存在は「大人」という概念や存在と対になるもので、「子ども」が単体でいるという社会はあり得ないと思っています。「子ども」の人権を守るために「大人」がやらなければいけないことがあるとすると、それは「子どもの人権」というものは、「大人」が保障するもので、子どもからすると大人から与えられたものであると感じてしまいます。もちろん、考え方として(あるいは理想として)「子どもの権利はすべての子どもが無条件に持っているもので、いかなる条件も伴わない」と考えること(あるいは理想とすること)に反対はしませんが、それを保障できる社会というものには条件があるような気がします。(子どもの人権に限りませんが)人権を守れるような社会を作るためには(色んな側面での)コストがかかると思うので、その社会的なコストを賄うことができるのかという現実原則も合わせて考えていく必要があると思います。「子どもの人権」を保障する際にも、何でもできるという訳ではないので、子どもが主張したいことが「自分勝手」や「わがまま」ではないという話し合いと、子どもに人権はあっても、コストがかかるからすぐにはできないこともたくさんあることを伝えていく必要があるのではないかと考えた日でした。

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