#108 ファイターであること

日常のエピソード

 「ファイター」というのは、戦う人(戦士)や何かに向かって戦う人を意味するようです。今回の表題にしたきっかけは、これまで何度も題材にしてきた朝ドラです。今の朝ドラは、「風、薫る」という明治の訓練された看護婦になっていく2人の主人公の物語ですが、ドラマの中で主人公の2人が看護婦になるきっかけを作ったのは、大山捨松(おおやますてまつ)という「鹿鳴館の華」と呼ばれた女性でした。ドラマの主人公2人は、捨松の勧めで看護婦養成所に入り、その後、看護婦としての経験を積んでいくのですが、表題の言葉は、日清戦争が始まり、職業人としての看護婦が必要になっているにも関わらず、軍部が看護婦を必要としない価値観の話を聞いて、捨松は「自分がファイターであることを忘れていました」というセリフを言うのです。この時の捨松は、陸軍卿(明治初期の陸軍のトップ)と結婚していたこともあり、その地位を活用して女性教育に力を注いでいくのですが、(ドラマ上でしょうが)しばらくその地位を活用した動きをしていなかったという設定のもとでのセリフのようです。 

私は地位を活用するかどうかはともかく、既存の価値観や方法と戦う(ファイターという)存在は好きですし、そうでありたいと思ってきたところがあります。現役時代は、ずっとそう思ってきたような気がします。

ところが、最近になって、少し見方を変えた方が良いかなと思い始めています。既存の価値観とファイターとの関係は、昔からよく言われている「テーゼ(最初にある意見)とアンチテーゼ(テーゼを否定・反対するための意見)」の関係に近いのかも知れません。弁証法では「テーゼとアンチテーゼ」をぶつけ合うことで、より高い次元の結論(ジンテーゼというのだそうです)を導くものとされています。ただ、私が最近感じているのは、「テーゼとアンチテーゼ」をぶつけ合っているあいだ、周囲にいる人への影響を考える必要があるのではないかということです。

例えば、ある組織で、昔からある価値観と新しい価値観がぶつかり合ったとします。それは既存の価値観を大切にしようとする集団(人の集まり)と新たな価値観を大切にしようとする集団のぶつかり合いというということになります。ぶつかり合っている当事者は、それぞれが相手に負けないように戦うことになります。ただ、もし、そこにどちらが良いのか判断できない、あるいは判断するにはまだ経験が浅い人達がいたとします。すると、その人達にとっては、「戦っている」ことがモデルとなるので、自分と意見が異なる人が出てきたら、相手に負けないように戦う必要があるんだと感じることになりはしないかと思うようになったのです。

話を簡単にするために、「組織」を「家族」に置き換え、両親(父母)に意見の違いがあり、そこに年齢の小さい子どもがいたとします。夫婦は、喧嘩しながらも意見の違いを大人の判断(この大人の判断には経済的なことや育児観の違いなど様々なことが含まれます)で何とか合意に達したとして、そこにいた子どもにとっては、大人の判断は分からないので、意見の違いがあった時には、夫婦(両親)のように喧嘩すればいいんだということにならないのかという懸念です。 テーゼとアンチテーゼを主張し合う当事者は、ジンテーゼに行き着くことで満足を得られるかも知れませんが、当事者同士の「戦い」を目の当たりにしている人のことも考える必要もあるのかもしれないなあと感じるようになってきています。

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