「相対化」という言葉を検索してみると「一面的な視点やものの見方をそれが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること」となっています。この定義だけでは抽象的で分かりにくいですが、簡単に言うと物事を『絶対』であると決めつけず、関係性の中で見ていくということだと思います。こうした抽象的な言い方をすれば、『絶対』なことなど考えにくいのだから、当たり前だと感じる人も多いのかも知れません。
でも、例えばこれが自分の生活の具体的あり方みたいな話になってくると趣が変わってきます。自分が育ってきた家の生活習慣(例えば、家族でいただきますと言うかどうかとか、食事中にテレビを見るか見ないかとか、誰が最初にお風呂に入るかとか)が決まっていたような場合は、それが当たり前なので、自分では意識しないうちに『絶対』的になってしまっているという場合があります。また、親の躾が厳しいような場合も『〇〇するのが当たり前』という価値観の中で育てられたために『〇〇できなかった』場合に罪悪感を感じてしまうということも起こります。こうしたことも、『〇〇するのが当たり前』が『絶対』的になってしまっている例だと思います。私たちは、多かれ少なかれ自分でも知らないうちに『〇〇するのが当たり前』と感じるように育てられてきている部分があると思います。それは、日本という国で生まれて日本の文化の中で育っていく限りは日本の文化に否応なしにさらされ、適応できるようにしてきているということで、そのこと自体は否定的なことでもないと思います。
ただ、各家庭で少しづつ違っていることや、個人個人で違っていることも当然のことながらあり、自分にとっての当たり前(絶対)が家庭によって、あるいは個人によって違っていることを自覚し、どちらかが『良い』のではなく、どちらも『良い』のだと感じるためには、今回の標題である『相対化』という作業が大切なのだと思います。この『相対化』という作業は、かなり意識しないと難しい側面があると感じています。自分にとっての当たり前は、他人の当たり前とは違うのだと、理屈では理解できても感覚としては『違う』と感じてしまうことも起こります。『相対化』という作業は、自分にとっての当たり前(大切と感じること)をなくしてしまうことではなく、自分にとっての当たり前は『絶対』ではないのだと感覚としても理解するというか了解するというか納得するというか…
この感覚は、心理臨床をしていく上では大切な感覚で、私たちは色んな人と会っていくし、そのことは色んな文化の家族と会うということだし、どの家族の文化が優れているとか劣っているとかいうことではなく、そして自分自身の文化を大切しつつも、会っている家族の文化も尊重できるためには、『相対化』という作業は必然的に必要なことだと思います。 ところが、という接続語が正しいかどうか分かりませんが、心理臨床の対象となる人達に対しては『相対化』の作業ができても、仕事仲間には、うまくできていない人がいると感じることがあります。私にとっては不思議なことでしたが、(これは私の予想ですが)仕事の対象となる人と仕事仲間(自分と同等の仕事を期待する人)とを区別している印象があります。このことは、仕事上で(表立っていなくても)対立関係が起こる可能性があると思います。これをどうしていくのか?ということは今後も考えていく必要があるなあと感じています。
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