もうずいぶん前になりますが、虐待が社会的な課題として認められるようになった頃、「愛の鞭(むち)」は虐待かどうかが話題になったことがありました。「愛の鞭」のイメージは、例えばスポーツなどで、基礎的な動きを繰り返し行わないと次のステップに取り組めないような場合、基礎的な動きというのは単調でつまらないために、ついおろそかになりがちで、しかし、指導者は基礎的な動きの大切さが分かっているので、基礎的な動きを強制させるために叱責や体罰を使用することがありました。つまり、上達するためには必要なことなのだから、叱責や体罰を使用してでも目的(上達すること)のためには手段は選ばないことも、社会的に認められてきた印象があります。現在では「愛の鞭」といわれる行為は、パワハラや虐待につながる恐れがあるものとして否定されていると思いますが、一時、「愛の鞭」について議論された記憶があります。議論の中では、「過去の愛の鞭」があったからこそ、今の自分があるのだという、今の自分を肯定するために過去の「愛の鞭」を肯定することもあったように思います。この議論は、今の自分を肯定するためには過去のことも肯定する必要があるということでは理解できるような気もします。
そのような時期に実施した研修で使用した原稿の一部が見つかりました。その原稿の表題を今回の表題にしています。
その原稿には、「愛が伝わるとはどういうことか?」と書かれていて、愛が伝わるということは、「自分が大切にされていると感じられること」と同義としていて、ただし、子どもの年齢や理解力に合わせる必要があるとしていて、以下のような例を挙げています。
『母がキッチンに行くと、3才の子どもが戸棚の引出を開けていて、食器類が床に散らばっており、その中に果物ナイフも混ざっていた』という場面に遭遇したとして、多くの場合は、まず怪我をしていないか確認することが一般的でしょう。この時、親が怪我をしていないか心配しているという気持ちが、まず子どもに伝わり、そこに「ナイフは危ないでしょ」という言葉の説明が加わるようなことが繰り返されることで、子どもは起こった事態を理解できるようになります。
しかし、虐待行為として起こるのは、「果物ナイフ=危険」なのに、なぜこの子は危険な行動をしてしまうのか?危ないことをしたから叱責(場合によっては体罰)して分からせたいというパターンです。ここで起こっているのは、子どもの意図や気持ち(食器で遊びたい)に沿うことができず、(危険な)行動だけに反応してしまうということが起こっています。
というような例を挙げ、続けて、子どもが「人の痛みを知る」ことというのは、自分の状態を共有して貰うことが、他人の状態を感じることにつながるとしています。
子どもが辛い思いをすることや体罰で痛い思いをすることで相手の痛みが分かるという考えやそれを実行することは、子どもや他の人について「困った時(課題解決場面)」には、罰的な方法を取ればよいということを伝えていることになる、としています。 自分で書いたものではあるけど、「へえ~」と思って読みました。

コメント